「女として扱ってほしい」なんてセリフを聞くと、「良い友達」とか「妹みたい」で終わってしまうタイプの女の子の悩みだと思ってしまうけど、この映画は違う。
ゴミの運搬屋をしているクラスキーとバドヴァンはゲイカップル。ある日、二人は町外れのドライブインで少年のような娘ジョニーに出会う。
クラスキーはジョニーの美少年のような姿に興味をもち、またジョニーもハンサムなクラスキーに一目で魅かれる。
そして、次第に二人はバドヴァンの嫉妬も気にせず、愛し合うようになるのだった。
しかし、二人にはどうしても越えられないものがあった。
ゲイのクラスキーは、どうしてもジョニーを女として扱うことができない、つまり抱くことが出来ないのだ。
それでもクラスキーを愛するジョニーは「私を男と思って!」とうつぶせになって身体を差し出す。
やせっぽちの肢体で苦しさに耐え、あまりの痛みに泣き叫びながらも彼を受け入れるジョニー。
耐えることで、うまくいっているかのように見えた二人だが、ジョニーの一言でクラスキーは元の恋人バドヴァンのもとに戻っていってしまう。
「違うの!そんなことを言いたかったわけじゃないの!」という泣き崩れるジョニー。
同性愛って?
異性愛って?
どうして、好きなだけじゃダメなのか、性別を越えられないのか。
なんだか、見終わったあと、そんなことばかり考えてしまった。
でも、それは生理的に分かっている、それこそ身体の奥で。
愛されたい、愛されたい、女のとして愛されたい。
いたるところでジョニーの気持ちが痛いほど伝わってきて、見ていて痛々しい。
でも、耐える姿が悲しいくらい美しくて可憐だった。
それにしても、このときのジョニー演じる
ジェーン・バーキンは、本当に中性的で魅力的だ。
冷めた瞳とはうらはらに、真っ赤に熟れた蠱惑的な唇。
手足がひょろ長くて華奢な身体なのに、ときどき見せる伏し目がちな表情にドキッとさせられる。
特にジョニーとクラスキーが初めて出会うシーン!
鉄タンクごしにクラスキーを見つめるジョニーの熱っぽい視線と半開きの口元には、グッとくるものがある。
ところで、この映画、ミュージシャンであり俳優でもある
セルジュ・ゲンズブールが、妻
ジェーン・バーキンを主演に監督デビューした作品なわけだけど、もともと、この映画って、
ブリジット・バルドーと
セルジュが不倫中に作られた曲のタイトルなのよね。
ブリジットのダンナが怒って、アルバムからは「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」だけが削除されたからブリジットが歌う、この曲は世に送り出されてはいないのだけど。
「もう二度とこの歌は歌わない」と約束したのに、
セルジュはその1年後に
ジェーン・バーキンと「ジュテーム・モワ・ノン・プリュ」を吹き込んじゃって、その後さらに映画にまでしちゃったわけです。
ちなみに、この映画での
ジェーンは、ベリーショートなのだけど、これはカツラだったらしい。細かく三つ編みをあみこむようにして、その上にカツラをかぶせたのだそうな。
最初は切るのを嫌がってた
ジェーンも、最後は切ってもいいって言ったらしいのだけど、今度は
セルジュが反対したんだって。自分の映画のイメージと同じ
ジェーンが他の所で見られるのがイヤだったんだろうね、ってことになっている。
その気持ち、分からないでもない。
だって、本当にキレイ過ぎるほどキレイなんだもの、
ジェーン。
監督:セルジュ・ゲンスブール
出演:ジェーン・バーキン ジョー・ダレッサンドロ
「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を買いたい方、口コミをもっと見たい方は
コチラ!
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Posted by mogajo at 01:54│
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注意! ネタばれ含みます。
1975年作 監督 セルジュ・ゲンズブール 出演 ジェーン・バーキン
私のマル秘ノートによりますと、’98.11.5、銀座シネパトスにて、ゲンズブール・セレクション特集で観ました。
ジェーン・バーキンは故セルジュ・ゲンズブールの...
『ジュ・テーム・モア・ノン・ブリュ』【ぺぺのつぶやき】at 2004年12月14日 01:48